日々イガ(伊賀)リッシュガーデンのブログ

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里山の神社

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由緒ある神社です
細い道を通ってやから静寂そのものです。
粟神社
 
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詳細を添付します。
 
当社創建由緒にかかわって、綴喜郡櫟野邊粟神社記(1556・青谷村誌所載)によれば、
 「孝安天皇の御代、平間山麓の百舌ヶ原に少名彦名尊と高皇産霊神が降臨し、祀られたのが当社である。
 粟神社と名づけられたのは、一神が椎の木に、他神が榊にとどまり、また椎の木のもとに粟穂があり、榊のもとに稲穂が生えていた故」
という。

 当社の社名・“粟”の由縁は不明だが、古くは、“粟明神”(山城名勝志-1705・江戸長喜)・“稲粟明神”(大日本神祇志-1873・明治初年)・“稲粟大明神”(特選神名牒-1873)と称していたことから、上記由緒は、粟(あるいは稲粟)を説明するために作られたものであろうという。
 因みに、孝安天皇は実在を疑問視されている天皇(欠史8代の一)で、孝安朝創建というのも、当社を古くみせんがための創作か。

 当社は今、木津川に濯ぐ青谷川中流域の左岸(東側)山麓にあるが、城陽町史(1969)によれば、
 「もと今のところより東へ約5・600m余り、小字松尾(鎮守屋敷という)にあったが、中古、今の地に遷したと伝えられる」
との伝承が記されており(今、当社の東約1.7km付近の青谷川支流左岸に松尾の地名がある)、これが事実なら、現在地より川上に鎮座していたことになる、という。
 今、当社のあたりは鬱蒼たる樹木に囲まれているが、曾ては市辺の集落はこの辺りにあったが、青谷川の氾濫により現在地へ移動したといわれ(時期不明)、また、当地に青谷川沿いに田原へ抜ける古道沿いにあったことなどからみて、当初の鎮座地が粟谷・小松のいずれで゜あったにしろ、青谷川一帯に居住した人々によって祀られた社で、その始まりは山の神・水の神への祭祀であったと思われる。